朝の夢、夜の歌 銀河英雄伝説外伝 (出典:「銀河英雄伝説」読本) 田中芳樹・著      ㈵  螺旋《らせん》状におずおずと近づいてきた陽の光がはじけて、瞼《まぶた》の合わせ目から朝が進入してきた。  ラインハルト・フォン・ミューゼルは、長短三度のまばたきで、頭のなかの夜を追放した。聴覚への、朝の侵略が開始されていた。天井の一隅で、スピーカーがわめいている。 「起床! 起床!! 起床!!!」  ラインハルトは大きくのび[#「のび」に傍点]をした。隣のベッドで、赤毛の、ジークフリード・キルヒアイスが目をこすっている。ここは幼年学校の寄宿舎の一室だった。壁をへだてた隣室から、生徒たちの起きる気配がつたわってくる。点呼、洗面、そして校庭に整列して軍旗の掲揚がおこなわれるのだ。  ラインハルトは時を遡行《そこう》したのではなかった。彼が幼年学校を卒業したのは二年前のことであり、いま彼は殺人事件の捜査の任をおびて憲兵隊から派遣されてきているのだ。そしてこの日、四月二十八日は、被害者カール・フォン・ライフアイゼンの葬儀の日であった。  帝国歴四八四年、ラインハルト・フォン・ミューゼルは一七歳、階級は大佐である。  その後も何ら変化は生じなかったが、この当時、ラインハルトは自然の大気と人工の大気とを数ヵ月の周期で交互に呼吸している。つい先日まで彼はイゼルローン要塞に駐留して、最初は少佐として駆逐艦を指揮し、ついで中佐として巡航艦の長となった。その間、自由惑星同盟軍の大攻勢も経験し、その敗退する光景もみとどけている。  年齢に比較して、ラインハルトの階級は高く、武勲は多く、配置された部署の数も多いのだった。およそ人事異動のつど、彼の肩書と居場所は変動せずにいない。これは軍務省の人事方針に一貫性が欠けるという面もたしかにあるが、異動のたびにラインハルトが何かしら功績をあげ、すると姉アンネローゼとの関係が無言の雄弁ぶりを発揮して、上司としては昇進を推薦せざるをえず、昇進はほぼ必然的に部署の異動を意味する──という図式が成立するのである。  さらにありていに言えば、ラインハルトは上司ずきのする部下ではなかった。有能で(いやいやながら誰もがそれを認めた)、生意気な(よろこんで誰もがそれを認めた)部下は、先例墨守《ぼくしゅ》・年功序列型の上司にきらわれるのが自然というものである。ましてやそれが皇帝の寵妃の弟とあっては! 自分の麾下《きか》にいるときに戦死でもされた日には、皇帝の半ばひからびた手がひとふりされて、上司たる者の官途は破滅の滝へ直結することになるであろう。危険な発火物は遠ざけるにしかず。かくしてラインハルトは、平穏をのぞむ上司から隔離され、あらたな「犠牲者」がさまざまな意味で厄介な部下をかかえこむ不運をかこつことになるのだった。  むろんラインハルトは「危険な発火物」であった。凡庸な上司たちが想像するより、はるかに高い熱と巨大な破壊力とをもって、やがて王朝を、体制を、門閥貴族たちを、焼きほろぼすことになるであろう。それに気づかぬ者たちこそ幸いというべきである。  それにしても、帝都憲兵本部への出向とは、ラインハルトにとって、もっとも不本意な種類に属する人事であった。彼は宇宙の深淵のなかで巨大な敵を相手どって武勲をたてたいのに、弱い立場の人間に対して皇帝と政府の権威を誇示する任につかされたのである。  先日、ひとりの平民の老婦人が憲兵隊にとらわれた。三人の息子のうち、ふたりを戦死、ひとりを戦病死させたその老女は、各家庭にかならず保管されている皇祖ルドルフ大帝と現皇帝フリードリヒ四世の肖像画を壁からとりはずし、足蹴《あしげ》にして叫んだのである。 「せっかく生んだ子供を三人とも殺されたのは、皇帝陛下のためです。こうする他に、陛下に対して感謝し申しあげる方法がありません」と。  密告する者があって、老婦人は逮捕されたのである。憲兵副総監は、職権を利用してふたりの息子を後方勤務にまわした男だったが、部下たちに訓示して言った。「あの女が憎むべきは、叛徒たる共和主義者どもであるのに、陛下をおうらみ申しあげるなど、反国家的かつ非臣民的な忘恩行為のきわみである。皇室に感謝し国家に奉仕する道を知らぬ者は、人間としての待遇に値しない。大罪にふさわしい罰を与えてやれ」  これは明白に拷問とそれによる死とを教唆したものであった。ラインハルトはそれを聞いたとき憤激したが、彼の権限からも担当からはずれた事件で手のほどこしようがなかった。  だが、憲兵隊の内部に、おそろしく勇敢な造反者がいた。本来の憲兵ではなく、艦隊法務士官としての研修のため、宇宙艦隊指令部から出向してきていた二〇代後半の青年士官で、ウルリッヒ・ケスラー中佐といった。彼はその不愉快な事件の担当者のひとりとなると、老婦人を密告した男のもとへ自ら出むいて、手柄顔の密告者を逮捕してしまったのである。理由かこうであった。 「老婦人が不敬の大罪をおかす場面を目撃しながら、それを制止せず手をつかねて傍観していたとは、臣民の道にもとる。後になって手柄顔で密告などしても、それは自分の罪をかくそうとの意図によるもの。内心で老婦人に同調していたからこそ、陛下の肖像画が踏みつけにされるのを傍観していたのであろう。共犯に類する行為である。これを処罰せずして、不敬罪の法の精神を守ることはできない」  かくして密告者は、その月の家計を赤字で決算することになった。密告の報奨金を上まわる治療費を、病院にしはらわねばならなかったからである。いっぽう当の老婦人は、拘禁と拷問は受けたものの、暴力はふるわれなかった。憲兵副総監が呼びつけて詰問すると、ケスラーは答えた。 「おそれおおくも陛下の肖像画を踏みつけるなど、正気の人間の行動ではありません。狂人に拷問をくわえても無意味であります」  ケスラーの反抗もそこまでではあった。老婦人が酷寒の一惑星に流刑されることも、食を絶って自ら衰弱死することも、ケスラーの力でははばむことができなかったのだ。それでも、卑劣な密告者が品性にふさわしい罰をこうむったことで、無力な平民たちはわずかに溜飲《りゅういん》をさげえたのである。 「なるほど、あのような反抗のしかたもあるのだな、みならうとしようか」  本来、ラインハルトは行動においても表現においても直線的であることを好んだが、ケスラー中佐の手法を見て、うなずくところがあった。彼はまだ一七歳であり、巨大な才能にもなお経験からの学習が必要であったのだ。じつはキルヒアイスも本質的にラインハルトと同様なのだが、彼の場合はラインハルトの烈気を抑制する任を自らに課しているので、ラインハルトよりは慎重に周辺の情勢に配慮する必要があり、ケスラーへの同感度はさらに高いものとなった。  ラインハルトは当然のことのように思っているが、人事異動のつどキルヒアイスは不安にかぎりなく近い感情を味わわされるのだ。もしかしてラインハルトと自分が、ことなる部署に配属されるのではないか、という疑念である。したがって、人事異動のときキルヒアイスがまず関心をむけるのは、ラインハルトと同じ部署に配属されているか否かであって、どの部署に配属されるかは第二義的であった。  現在のところ、彼の不安が実体化したことはなく、したがって、彼としては、部署に不満なラインハルトをなだめる余裕が生じるわけである。むろんこれはラインハルトがキルヒアイスとことなる部署に配属されても平気だということではなく、想像の外にあったということである。  とにかく今回もキルヒアイスはラインハルトと同じ部署で同じ任務についている。ラインハルトの姉、アンネローゼの配慮が動いていることは明白であったが、結局のところ軍部にとってラインハルトはともかくキルヒアイスの存在が歯牙にかける価値もないからこそ、それが許容されているのであろう。ラインハルトが士官である以上、部下をつけねばならず、その任にあたる一個人が存在するなら、両者をセットで動かせばことはすむのであった。キルヒアイスはそれを認識している。彼の存在価値はラインハルトとアンネローゼにさえ認められていればよいのであって、軍首脳に対しては単なる無害の存在であろうと思う彼だった──いまのところは。ラインハルトが完全な人事権を掌握するまでは。  幼年学校で殺人が生じたとの報を、帝都憲兵本部がひそかに受けとったのは、この年四月二六日のことである。当日のうちに刑事捜査の担当者が出かけていったが、ほとんど収穫もなく引きあげざるをえなかった。だが、放置しておけないのはむろんのことだ。  幼年学校で貴族の子弟を対象としての犯罪捜査となれば、警察力の介入は自動的に排除される。憲兵が捜査をおこない、典礼省がその告発にもとづいて処断をくだすこととなろう。警察にとっては不愉快なことであるに相違ないが、ゴールデンバウム朝銀河帝国は、もともと普遍的な法の下での平等などと無縁の社会なのである。  被害者は五年生(最上級生)のカール・フォン・ライフアイゼン、一五歳。朝、ベッドが空になっているのを同室の生徒が発見し、全校で調査した結果、食料倉庫で死体となって発見された。三時間ほど善後策を協議でついやした末、一件が憲兵隊にとどけられたのは正午すぎである。死因は、重量物の殴打による脳底骨折であったが、凶器が見あたらない。じつのところ、倉庫が外からロックされていたのと、凶器の消失だけが殺人の証明であった。そしてラインハルトとキルヒアイスが、幼年学校に泊まりこんでの捜査を命じられたのである。 「一周間は卿に全権を与える。だが、ミューゼル大佐、憲兵隊に人材がいないわけではない。事態が卿の手にあまるなら、誰かと交替させてもよいのだぞ」  その口調に誠意が欠け、揶揄《やゆ》と皮肉がこもっているのはいまさらのことではなかった。ラインハルトは逃亡したくなかった。不本意な部署における不本意な任務であっても、それをはたさずしてしりぞくことは、彼自身の存在意義にかかわるのだ。 「ラインハルトさま、何も連中の見えすいた策《て》に乗ることはありますまい」  キルヒアイスの見解はややことなる。ラインハルトが万能である必要はない。区々たる刑事事件の解決に優秀であるより、大軍を動かし諸将を統御するに卓越するほうがたいせつであろう。憲兵本部の意図は露骨であった。ラインハルトが犯人を検挙しえなければ、憲兵としての能力不足をいいたてて、態《てい》よく追い出すつもりであるのだ。それならそれでよいではないか、と、キルヒアイスは思うのだが、ラインハルトはそんな彼に言うのである。 「なあ、キルヒアイス、おれたちは一度も負けなかったな。相手が何人でも、どんな奴でも」 「ええ、ラインハルトさま」 「これから将来《さき》もけっして負けない」 「はい、ラインハルトさま」 「……だから、目前の敵にも負けるわけにはいかない。どんな狡猾で辛辣な犯人であってもだ」  つまりラインハルトは、一週間以内に犯人を検挙して、憲兵隊の鼻をあかしてやりたいのである。しりぞくことを知らない人だ、とあらためてキルヒアイスは思い、金髪の少年の意向にしたがった。彼はいつでも、彼の金髪の天使の意思を受けいれた。      ㈼  翌二七日、金髪の少年と赤毛の少年は、二年たらず前に卒業したばかりの母校を訪れた。 「ラインハルト・フォン・ミューゼル大佐と、ジークフリード・キルヒアイス大尉?」  門前に立って衛兵役をつとめていた最下級生たちは、当惑の表情をつくった。憲兵隊からの連絡は、幼年学校当局を経由して受けとってはいたが、大佐と大尉という階級を聞けば、壮年の世代を想像するのが当然であった。彼らの連絡を受けて、まず最上級生たちが駆けつけた。  この最上級生たちは、ラインハルトとキルヒアイスを知っていた。三年ほどは、同じ学校に在籍していたのである。ラインハルトはその美貌といい学業成績といい、下級生たちにとって比類なく華麗な存在であった。上級生であれば屈折せざるをえない感情も、下級生なら率直なものとなりえた。ラインハルト自身がキルヒアイス以外の者に心をひらかず、孤高をたもっていたため、遠くからあおぎみるという形で、彼は崇拝の対象となった。キルヒアイスはといえば、つねに彼の傍にいることと個人としての優しさから人望をえていた。 「一七歳で大佐だって……? すごいな」  下級生たちのささやきかわす声が、微妙な空気の振動となってラインハルトの金髪をそよがせた。おどろき、好奇心、不審、感歎の念が、コーヒーにそそがれたミルクのように、縞模様をつくって並流した。その無秩序な流れのなかを、ラインハルトたちは校長室へと歩いていった。  ラインハルト・フォン・ミューゼルの名は、二年前の主席卒業生として、なお多くの教師と在校生の記憶回路に刻印されている。卒業して少尉に任官し、二年間で大佐という昇進の速度は、幼年学校が設立されて以来の記録でもある。それは誇示されてしかるべきものであるはずだった。だが、この華麗なる卒業生を語るに際して、教師たちの口調が明快さをかかざるをえないのは、ラインハルトの境遇が普遍的なものとは言いがたいからであった。なにしろ彼の姉アンネローゼは皇帝フリードリヒ四世の寵妃であり、伯爵夫人の称号を賜った身である。 「グリューネワルト伯爵夫人の弟? それなら出世するのも当然だ」  そのような納得のされかたが、ラインハルトにとっては不本意でもあり不愉快でもある。感性のささくれが、一七歳をむかえたばかりの若々しい皮膚に投影されると、この美貌の少年が、不機嫌な、近づきがたい印象を他者に与えてしまうのだった。端麗であればあるほど、その完璧さをそこなう内宇宙の破綻が増幅されるのであろう。ラインハルトはまだ一七歳で、感情はしばしば理性の制御をこえた。  その点はキルヒアイスも同様なのだが、熱い湯より熱い湯に対しては水にひとしくなる道理であるし、彼はラインハルトより意識して感情の沸点を高くしていた。  ラインハルトは、つねにラインハルトであったが、キルヒアイスは、自らの意思と努力でキルヒアイスになったのである。もともと自己形成を自覚的にすすめる素質が彼にあったにせよ、それを開花させたのは彼自身の意識であり、不可欠の触媒となったのは「おとなりのミューゼル家の姉弟」であった。  幼年学校の校長は退役寸前の老士官で、階級は中将、名はゲアハルト・フォン・シュテーガー。男爵号を所有している。この人物はラインハルトたちの在学当事は副校長であった。軍人らしくも見えず、教育者的な風貌でもない。大貴族らしい倣岸《ごうがん》さもない。田園の小地主というあたりで、言うことにも力強い個性が感じられなかった。 「本来なら部外者を校内に立ち入らせるのは好ましくないのだが、ことは重大かつ兇悪である。傷つけられた名誉を回復するには、公明正大に事件を解明し、不幸な生徒の霊を安んじるほかにない。捜査官として、また本校の先輩として卿らの努力を期待する」  それにしては憲兵隊への通報がおくれたな、と、ラインハルトは思ったが、むろん口に出して言語化はしなかった。校長は、それが癖なのだが、髪にくらべて濃く暗い色調の口ひげを指ではさんで上下させながら、いささか埒《らち》もない意見をのべた。帝国軍の礎石たる幼年学校で殺人を犯すなど、共和主義者とやらいう連中の悪辣な破壊工作ではないのか──と。 「だとすれば、共和主義者どもは時空をこえる能力を所有しているのかもしれませんな。つぎは──軍務省あたりをねらうかもしれない」  皇宮を、といいたいのをあやうくこらえたラインハルトの心理が、ただひとりキルヒアイスにだけは看取しえた。  ラインハルトが、旧来の秩序感覚からはとうてい許容されるものではない反逆の意思を有しているという事実は、当人とキルヒアイスとだけが知ることだった。ラインハルトは、姉の威光を借りて何かと長上にさからい、分不相応の出世をもくろむ「生意気な孺子《こぞう》」とみられることが多いが、彼の本心が判明すれば、生意気などと言われるだけで事態はおさまらないであろう。大逆罪である。ラインハルトとキルヒアイスは処刑され、アンネローゼも死を賜ること疑いない。いかに皇帝の寵妃であろうとも、王朝の存続をはかる全体制の総意は、皇帝個人の意思にまさる。ラインハルトが寵妃の弟というのではなく、アンネローゼが大逆犯の姉ということになって、主客が転倒する。大逆犯は、妻子、両親、ときとして兄弟や友人にいたるまで罪に連座するのが過去の例であり、この一事にかぎって、大貴族も平民も平等な処遇を受けることになっていた。  時間それ自体に、澱《おり》がたまっている。流れない水は腐敗する。流れを生もうと水が動くとき、ゴールデンバウム王朝とその政府は、死と暴力の恐怖によってそれをさえぎり、結果として自らの腐敗を深めてきたのだ。  滅びきった古いものに哀惜の念をむけるのはよい、だが古いがゆえにあらたなものを圧殺する汚泥の堆積を美化する必要などないのだ。ラインハルトの誓約は、歴史からこれらの汚泥を一掃することにあった。  初陣のとき以来、ラインハルトの背後には、つねに敵対者の長い暗灰色の影が落ちかかっていた。そのするどい爪が彼の肩や背をひっかいたことも一再ではない。爪の所有者は、皇宮たる「新無憂宮《ノイエ・サンスーシー》」の虚栄と特権の迷路にひそみ、ラインハルトはいまだにその所有者に対して根本的な反撃をくわえることができずにいる。  周囲に無能で視野のせまい者が多いことをラインハルトは不愉快がるが、キルヒアイスの見解は、ここでもややことなる。無能で視野のせまい者が多いからこそ、ラインハルトは彼らを踏み台にして高みをめざすことが可能となるのだし、洞察力と想像力にとんだ者がラインハルトの野心のおもむくところを看破すれば、彼らふたりが未来の手をにぎりことは永遠になくなってしまう。一七歳という年齢をとりされば、ラインハルトはたかだか一大佐であるにすぎず、一個人の成功としてはすでに充分ではあっても、打倒すべき敵の巨大さにくらべて、卑小で非力な存在であった。  ラインハルトが校長に問いかえした。 「共和主義者などというより、たとえば、幼年学校の運営に不正があり、それを知ったために害されたというようなことは考えられないでしょうか」  キルヒアイスはひやり[#「ひやり」に傍点]とした。個性にとぼしい校長の顔が、完全に険悪化する寸前に、ラインハルトは自己を援護した。 「たとえです、あくまでもたとえです、校長閣下。お気にさわったとしたら、軽率をおわびします。憲兵隊などにおりますと、ものの考えがすなおでなくなってしまいますもので」  ていねいにラインハルトは本心をいつわった。未だ無力な反逆者は、ときとして過剰なほどの礼節によって自らの本質をかくしとおさなくてはならない。その必要性をラインハルトは充分に承知している──当人はそのつもりである。だがキルヒアイスから見れば、羊毛の下に圭角《けいかく》がのぞく。その視線はキルヒアイスが後天的にさずかったものである。その圭角を露出させないよう、キルヒアイスは声に出さず全霊でラインハルトに願った。校長室の窓ごしに、午後の陽があたたかい。  季節は晩春であった。空気には複数の花の香が混入し、風は人の皮膚にこびる。窓外に視線をおくると、濃淡さまざまな緑が、炸裂するように勢いよく視界全体を占拠し、網膜をそめあげてくる。  美しく生気にみちた季節ではあるが、どことなく微温なものを感じて、ラインハルトはかならずしもこの季節を好まなかった。彼が好む季節は、早春の朝、初夏の晴れた午後、晩秋の肌寒い日々、そして初冬。晴れわたった日の夕方、空気が蒼く透明度をまして人々を海底に沈め、そして夜が覇権をにぎると、凍《い》てついた星々が銀色の槍を地上へ投げおろす。はく息は白く光を反射する。皮膚がはりつめ、五感が研磨されるような感触に全身がつつまれる。そこには晩春のような自然と人間のなれあいがない。  いずれにしても、硬質の透明感をもつ時間帯が、ラインハルトには好ましかったのだ。 「……卿が必要と思うなら、当校の経理を調査してみるとよい。何も不審な点など出てきはすまいがな」  不機嫌さをかくしおおせない校長の声だった。 「いずれ戦場へ出て、ともに共和主義者どもと戦わねばならぬ生徒たちが、おたがいに猜疑《さいぎ》しあわねばならぬとは不幸なことだて」  校長は灰色の吐息をはきだした。彼が金髪の若者と赤毛の若者にとっても恩師であった。すくなくとも不当に遇されたことはなかった。ラインハルトはいま一度、非礼をわびると、 「猜疑とおっしゃいますが、殺人と公表されてはいないはずではありませんか」 「噂は光より速く、分子より小さなものでな、ミューゼル大佐、根絶することはできぬよ」  ラインハルトはうなずき、「事故」の現場を視察するために校長室を辞した。生徒たちから証言を求める許可を校長はくれ、信頼できる生徒をよこすよう約束してくれた。      ㈽ 「ここが、その……不幸な事故の現場です」  食料倉庫に案内してくれたのは、幼年学校に三〇年も奉職して、ようやく中尉に「していただいた」事務員だった。一階級しかちがわないキルヒアイスも彼にとっては服従すべき上位者であり、大佐であるラインハルトは文字どおり雲上人であった。ラインハルトたちが早々に倉庫の調査をきりあげたのは、いまさら物的証拠などないとわかっていたのみならず、事務員のうやうやしさが息苦しささえ感じさせたからであったかもしれない。  倉庫を出るとき、ラインハルトは、事務員に、この一件について校内にどんな噂が流れているか尋ねてみた。返答は謹直そのものだった。 「はい、あれは何かのたたりではないかとも言われております」 「たたり!?」 「ええ、何十年も前に事故死した生徒の霊が仲間をほしがっているとか、悪魔崇拝者たちの集会を見たからライフアイゼンは殺されたんだ、とか、そんな噂でもちきりです」 「貴重なご意見ありがとう」  苦笑をかくして、ラインハルトは初老の事務員と別れた。 「たたりときましたね」 「怪談と学校は双生児だからな。怪談のない学校なんてないさ。たたりぐらいあるかもしれない」  あらゆる部屋、階段の影、廊下の隅、扉のむこうには、かならず人間ならぬものが棲息している。それらは宇宙の暗黒の迷宮にひそんで宇宙船をひとのみにしようとする怪物と等質の恐怖だ。洞窟の奥に小さな火をおこして、外界の厚く深い闇にかろうじて対抗した原始人の記憶が、人間の細胞核から完全に除去されないかぎり、人々は闇の存在それ自体に恐怖の意味を附加しつづけるだろう。それを軽蔑することはできても、無視することはできない。ラインハルトにしてもキルヒアイスにしても、毛布とシーツでつくった要塞にとじこもって、眠れぬまま、夜の暗さの前に自らの存在の弱小を感じたのは、つい数年前のことである。  とはいえ、闇の奥にひそむ超人間的な存在が幼年学校の生徒を害したという考えは、このさい排除してかからねばならなかった。  学校本部、第一から第三までの各校舎、体育館、図書館、閲兵場をかねた競技場、射撃訓練場……と、ラインハルトたちは校内を歩いてまわった。一ヵ所にとどまっているより、動きまわったほうが、会話を盗聴される可能性も少ないはずである。  幼年学校は、敷地の広大さといい、設備といい、同年齢の少年たちを教育する他の学校とは比較にならない。士官学校とならぶ銀河帝国の軍国主義教育の中枢であるからそれも当然だが、ラインハルトの蒼氷色《アイス・ブルー》の眼光でみすかせば、内容の充実度が外見におよばないこと遠かった。 「老朽化がすすんでいるな」  設備だけではない。教師陣がそうであり、それにともなって校風も退嬰《たいえい》の影を濃くしつつある。何かを生みだすということが重視されず、規則や習慣を墨守し、古さと正しさを同一視し、変化を秩序の壊乱《かいらん》者とみなすのだ。  もっとも、理屈はどうであれ、変化のない光景がなつかしさをよびおこすのも事実だった。 「図書館も変っていませんね」 「あのホールの奥で上級生とけんかしたな、二対四で」  幼年学校時代のラインハルトは、充分以上に「けんかっぱやい」人為《ひととなり》だった。それ以前においてもそれ以後においても変化はないのだが、彼は下級生に暴力をふるったことはなく、多数で少数をいたぶったこともない。つねにその逆であった。それは彼の魂の尊厳に深いかかわりを有することだった。 「あの噴水には、姉上の悪口を言った上級生を投げこんでやったっけな」  その種の思い出が、視界のいたるところに眠っていて、彼らの記憶にゆりおこされるのを待ちのぞんでいるのだった。 「古戦場ですね、ここは。いたるところにラインハルトさまの武勲のあとがのこっています」 「他人事みたいに言うな、いつだってお前がいっしょだったじゃないか」  ラインハルトは低い音楽的な笑声をたてた。それがまたあらたな回想を喚起し、少年は豪奢な金髪を指でかきあげた。 「幼年学校《ここ》を卒業してまだ二年しかならないけど、キルヒアイス、おまえがいてくれなかったら、おれはもう五、六回は冥界の門をくぐっているな」  率直な謝意の表現はここちよいが、キルヒアイスはやや反応の方法にこまって、うまくもない冗談にまぎらわせた。 「ご存知ですか、ラインハルトさまは冥界の門に着くまでは回数券を持っておいでですが、入場券はお持ちではないのですよ。だから、どんなに危ない目にお会いになっても、死ねないのです」 「へえ、知らなかった。そいつはつごうのいい話だな」  ラインハルトはもう一度笑うと、歩調をゆるめた。建物の群をぬけて、広い芝のグラウンドの前に出ていた。わずかに汗ばんだ自覚が、彼らの足を楡の大木の下へ向けさせた。  木陰で、かかえていた資料をもう一度ひらく。被害者の学業成績は学年で一〇位から五〇位の間を前後している。優秀であるが傑出しているというほどではない。幼年学校におけるキルヒアイスが、そのような存在であり、射撃において最優等生であったにすぎない。幼年学校の考課表に、補佐役としての信頼性などという項目はなかったし、作戦立案もシミュレーションによるものにすぎなかった……。 「成績をそねまれて、というようなこともなさそうですね。それにしてもなぜ食料倉庫などに出かけたのでしょう」 「そもそも、食料倉庫などに生徒が夜間、出入りできるというのがおかしいじゃないか」  もっとも、それは論じるに値しないことである。ラインハルト自身、順守する必要と目撃者と、双方を欠いたところでは校則を破ったことは一再ならずある。軍旗に敬礼するときに両足をひらく角度とか、教師に頭をさげるとき心のなかで謝恩の言葉を発するとか、およそ独立した人格の所有者にとって信じられないほど愚劣な校則があるのだ。  再経験することになった幼年学校の食事は、郷愁にはうったえたが味覚に対してはそうではなかった。ライ麦パン、ソーセージ、チーズ、野菜スープ、ジャガイモのミルクかけなどが雑然と並び、量はどうにか満足できても、味は貧弱をきわめる。在校当時、ラインハルトたちはしばしば説教されたものだった。 「栄養価は充分に考慮してある。軍務をもって国家に奉仕しようとこころざす者が、美食を求め、味に不平をもらすなど惰弱のきわみである」  他者を支配し指導する立場にある者が、いたけだかに質朴を強制するとき、自分自身がそれを順守する例などありはしない。肥満は怠惰の照明であるとして国民の食事内容にまで干渉したルドルフ大帝が、自身は美食と暴飲のはて、晩年は痛風になやまされたという事実がある。ルドルフにしてみれば、彼の[#「彼の」に傍点]食物を平民どもが無秩序に喰いちらすのが不快であったのだろう。上かくあれば下それにならう。前任の、つまりラインハルトらが在校していた当時の校長は、私室にワインとキャビアを隠していたが、現校長シュテーガー氏はどうなのだろうか。いずれにしても、食料倉庫に生徒がはいりこむなど、校則以前の問題であるはずだが……。  ラインハルトの視線の先には、エメラルドの粉末をまいたかのような芝生がひろがり、生徒たちがサッカーに興じている。グラウンドを見おろす芝の斜面に、ラインハルトとキルヒアイスはならんで腰をおろした。赤と黄のジャージが入りみだれ、集散し、かけちがう光景が、不意に人影にさえぎられた。最上級生であろう、かなり背の高い茶色の髪の少年が、ラインハルトとキルヒアイスの前に直立不動の姿勢をとって敬礼した。 「失礼します。自分は最上級生のモーリッツ・フォン・ハーゼといいます。校長のご命令で、ミューゼル大佐らの捜査に協力するようにと言われました」 「ああ、ご苦労さま。すわってくれ」 「いえ、大佐どのの前ですわることなどできません。どうぞこのまま、ご質問ねがいます」  かたくるしいというより、躾《しつけ》や規則に対する機械的な従順さを感じたが、その点についてはラインハルトは口にしなかった。 「ではさっそくだが、死んだライフアイゼンの評判はどうだった?」 「よくわかりません」 「とくに誰かと仲が悪かったとか、そういうところは?」 「さあ、どうでしょうか」  これでは協力の意味がない。その生徒はむろんラインハルトに反抗や非協力の意思をいだいているわけではなく、およそ他者の人間関係に関心が薄いようであった。数字や資料のほうに現実感を密着させる型の秀才であるのかもしれない。ラインハルトが舌打ち寸前の表情になって沈黙したので、キルヒアイスがかわって質問した。 「では逆に、彼と仲がよかった者は?」 「私です」 「そう、それなら君の目から見て、ライフアイゼンはどんな人間だった?」  生徒の不得要領な顔つきを見て、キルヒアイスは言いなおした。たとえば、自分の成績が他人にぬかれたとき平然としていたか、それとも気に病んでいたか。 「そういえば、気にするほうでした」  他罰傾向があったか。つまり、自分の失敗や不振を他人のせいにすることはあっただろうか。 「ええ、そんなところもたしかにあったようです」 「友人だというのに、あまりかばいだてしないんだね」 「率直にお答えすることが、協力することになると思いますので……」  熱のない口調に、キルヒアイスもかるいいらだちをおぼえた。この生徒は、自分が知っていることや信じていることより、相手ののぞんでいることを語ろうとしているように思えた。生徒の背後のグラウンドで、騒然たる気配が生じた。肩ごしに振りむいた生徒に、視界をさえぎられたラインハルトがたずねた。 「どちらが得点したんだ?」 「黄色でないほうです」  生徒が答えた。赤いジャージの群が歓喜の声をあげてだきあうのが見えた。キルヒアイスは一瞬、ハーゼの顔を見なおしたが、何も言わず、ラインハルトが手を振って彼を去らせるにまかせた。 「役に立たない奴だったな」  ないがしろにされたような思いがラインハルトの声に不満の蒸気をこもらせた。 「兇器も出てこないんですからね。どうやって殺害し、どうやって兇器を始末したのやら」 「まず犯人の動機を考えてみよう、キルヒアイス。といっても、結局のところ動機は単一もものに還元されるけど。わかるだろう?」 「自己の利益を守ること、ですか」  この場合キルヒアイスは確信をもって断言する必要はなく、ラインハルトの思考を検討する材料を提供すればよいのである。金髪の少年は豊かな前髪ごと顔を上下させた。 「そう、戦争と同じだな。積極的に勝利をえるか、しりぞいて現状を守り損失をくいとめるか。攻撃的動機と防衛的動機とだ」  よけいな口をさしはさまず、キルヒアイスは耳をかたむけていた。 「それにもうひとつ、復讐的動機というやつを考えてみる必要があるかもしれない。広い意味での防衛的動機にはいるが……」  ラインハルトはことばをきって一瞬、考えこみ、かるい舌打ちの音をひびかせた。 「おれたちが捜査を命じられた理由がわかったぞ、キルヒアイス」 「何です?」 「犯人を油断させるためさ」 「ははあ……」  キルヒアイスは納得した。  一〇代のラインハルトらが捜査に派遣されたのを知って、校長シュテーガー中将は怒ったという。憲兵隊は事件の解決に真剣ではないというのである。ラインハルトたちが来訪したときは口をぬぐっていたが……。犯人が油断して足を出してくれればよいのだが、さてどうだろう。      ㈿    こうして殺人の被害者カール・フォン・ライフアイゼンの葬儀の日、四月二八日がきたのだ。それはロイヒリン墓地でとりおこなわれた。未だ陽の没しさる時刻ではなかったが、厚い雲が自らの荷重をもてあますように低くおりてきて、視覚的には時計の針を二時間ほどすすめ、皮膚感覚においては一ヵ月ほど逆行させた。参列した人々の半分ほどは、帰宅後に風邪薬をのむことになるかもしれない。 「……このたびはご不幸な事故で」  という複数のささやきが、情報統制の効果を雄弁に証明した。天候にふさわしく、式は重苦しく進行し、友人代表が弔辞をのべた。学年主席モーリッツ・フォン・ハーゼがその任にあたり、非のうちどころのない文章を、非のうちどころのない態度で読みあげた。つまり、聞きおえた瞬間に忘れさってしまうように没個性的な弔辞だったのだが、ともかくも破綻なく任をはたした学年主席が、故人の父親と握手をかわしたときは、形式美の極致というべきか、喪服の女性たちがいっせいにすすり泣きの声をきそいあった。  式がすすむとラインハルトは父親に歩みよった。 「このたびはお気の毒です、ライフアイゼン大佐」  ラインハルトより三〇も年長で、階級は同じという退役寸前の士官は、すでに校長から内密に事情を聞いており、ラインハルトが帝都憲兵隊本部から派遣されたことを知っていた。篤実《とくじつ》そうな父親は、苦悩にさいなまれた顔で礼儀正しく金髪の少年にあいさつを返した。 「ご苦労さまです。どうか犯人を探し出し、相応の刑罰を与えてくださるようお願いします」 「むろんです。全力をつくして、ご子息の仇を報じさせていただきます」  いつわりでなくラインハルトは言い、だが同時に職務上、この同情すべき父親に、息子の死が殺人であることを口外せぬよう念をおさねばならなかった。それでいながら、父親が決然として、「承知しております。帝国軍と幼年学校の名誉にかかわることですから」と答えると、自分の立場にも父親の従順さにも腹がたつのである。支配される者の寛容さが、支配者を増長させ、統治から緊張を失わせるのではないか。  彼がそうもらすと、キルヒアイスは微笑して彼の怒気を受けとめた。 「ラインハルトさまのおっしゃるのは正論ですが、このさいはすこし酷ですよ」  ラインハルトはてれたように黄金の髪をかるくかきあげた。 「そうだな、彼の罪ではない。五世紀かけて精神構造を奴隷化、いや、家畜化されてしまったのだから。彼は犠牲者なのだ、責めてはいけないな」  自分はけっして一方的な犠牲を甘受したりはしない、と内心の誓約をあらたにしながら、ラインハルトはつぶやき、ふとキルヒアイスの視線を追って、そこに学年主席ハーゼの姿を見出した。ラインハルトの無言の問いかけにキルヒアイスは気づいて答えた。 「ええ、何か気になっているのです。ただ、それが何であるのかわからないのです。奥歯にチシャの葉がはさまったような気分で……」 「そいつはさぞ不愉快なことだろうな」  チシャが嫌いなラインハルトは、他人ごととも思えない表情になった。 「しかしまあ、一週間の期限もあることだ、さしあたり捜査に専念しよう。葬儀で時間をとられたが、たてつづけにこんなこともあるまい」  だが、ラインハルトの予想は、数億分の一という確率ではずれた。幼年学校にもどった彼のもとに、ジークリンデ皇后恩賜病院から一通のビデオ・メールがとどいていたのだ。その内容は、同席したキルヒアイスをも一瞬、呆然とさせた。 「……帝国騎士《ライヒスリッター》セバスティアン・フォン・ミューゼル氏におかれては、帝国歴四八四年四月二八日一九時四〇分、当病院特別病棟にて死去されました。死因は肝硬変。当病院は氏の回復には最善をつくしましたが、入院時にはすでに手おくれというべき状態でした」  父の訃報をつげる画面を、ラインハルトは無感動に見やった。病院は、父の死に彼自身の健康管理上の責任が大きいことを強調したいのだろうが、ラインハルトにとっては意味を持たないことであった。無言で凝固する彼の肩に、そっと何かがあてられた。ラインハルトは肩におかれた友人の手を、自分の掌《てのひら》でかるくたたいた。 「心配するな、キルヒアイス、ちゃんと葬式には出るさ。でないと姉上にしかられる」  笑って見せようとして、ラインハルトはその努力を中途で放棄し、不快な記憶の反芻を余儀なくされた表情になった。  ラインハルトが父親を憎悪していたことをキルヒアイスは知っていた。その憎悪は単質でも単色でもなかったが、基調はかくしようがなかった。七年前、彼の姉アンネローゼが皇帝の後宮につれさられたとき、父セバスティアンは五十万帝国マルクの仕度《したく》金を受けとったのだ。それは厚化粧で飾りたてた、人身売買の代金だった。姉を買った者も、売った者も、ラインハルトは憎まずにいられなかった。身分をこえた、彼らは共犯者であり、それを正当視する社会体制と、さらにそれをささえる人心そのものとが、ラインハルトの撃ちおとすべき対象となったのである。  四月三〇日におこなわれた帝国騎士《ライヒスリッター》セバスティアン・フォン・ミューゼルの葬儀はささやかなものであった。当の死者より、彼の娘に敬意あるいは媚《こび》を表して、すくなからぬ数の人々が参列したが、心から悼《いた》んだ者は、おそらくただひとりであったろう。  一四年前に亡くなったクラリベル・フォン・ミューゼル夫人の傍に、夫の柩が埋められた。豪華ではないにしても格調と空間的余裕のある墓所は、アンネローゼが買い求めたものものだった。まさか息子の敵意にあてつけたわけでもないであろうが、父親は入手した金銭のすべてを蕩尽《とうじん》し、形あるものとして残さなかった。  黒衣を身につけ、ヴェールの下に表情を隠したアンネローゼの横で、ラインハルトは宙空に凍《い》てついた視線を放っていた。キルヒアイスがアンネローゼと挨拶をかわすことができたのは、式が終わってからである。 「アンネローゼさま、宮廷で何かおこまりのことがありましたら、どうかラインハルトさまや私にお話しください。すこしはお気がはれるかもしれません……」 「ありがとう、ジーク」  わずかにふるえる声が、キルヒアイスの心のひだに浸透していった。 「ほんとうにありがとう……」  その声は比較しようもない雑音にさえぎられた。 「グリューネワルト伯爵夫人、まことにお気の毒ながら、今夜の歌劇見物にはぜひとも同行せよと陛下のおおせであります。開演は七時からですので、そろそろご帰宅あってご用意をどうぞ」  そうなのだ。アンネローゼは皇帝フリードリヒ四世の寵妃であり、グリューネワルト伯爵夫人なのである。一大尉にすぎないキルヒアイスとの間には、遠い距離と高い落差があり、目前に立ちはだかる宮内省の官吏の一群がそれを彼に思い知らせるのだった。やり場のない思いが、ゴールデンバウム王朝それ自体に対する憎悪となって収斂《しゅうれん》し、深化する情景を、キルヒアイスは現実の光景にかさねあわせた。宮内省の官吏たちにかこまれて、黒塗りの地上車《ランド・カー》へむかうアンネローゼの姿に。  生前のセバスティアン・ミューゼルが、男爵号の授与をすすめられながら謝絶した、と、キルヒアイスは耳にしたことがあった。単なる噂であって、真偽のほどは測りがたいが、事実であるとすれば、それが、娘を権門へ売りわたした父親の責任のとりかたであったのだろうか。あるいは自己弁護の最後の一線であったのか。キルヒアイスには判断がつかなかった。いっぽうでは、彼のほうから男爵号を申請して却下されたという噂もあり、ラインハルトはそちらのほうを信じているようでもあった。  ラインハルトとアンネローゼとの父親に対するキルヒアイスの記憶は、多く嗅覚に依存する。セバスティアン・フォン・ミューゼルという人には四六時中、アルコールの臭気がまとわりついていた。すくなくとも、キルヒアイスの脳裏のVTRには、ほとんど例外なく、酔漢としての彼が録画されている。彼は酒にまかせてつぶやいたかもしれない。 「娘を皇帝や大貴族に売りわたした父親は何千人もいる。なのにどうして、ラインハルトの奴はおれひとりを責めるのだ?」  だが、それは無理なからぬことだった。セバスティアンの同類たる男は何千人も存在するであろうが、ラインハルトの父親は彼ひとりであった。だから彼は他の誰でもないラインハルトの負の感情を向けられねばならなかった。  肩を圧迫する力の存在を、キルヒアイスは感じた。視線をむけるまでもなく、黄金色の髪と黄金色の怒りを、キルヒアイスは知覚することができた。強奪した者と、強奪された者とが、これほど歴然とわかたれるとは、想像もしなかった。 「ラインハルトさま」  それだけしかキルヒアイスはことばをつむぎだせずにいると、金髪の少年は友人の肩をつかんだまま、かろうじて蒼氷色《アイス・ブルー》の笑顔をつくった。 「とにかく……」  ラインハルトの端麗な唇が、凍てついた溶岩を宙にはきだした。 「これで姉上もおれも、半分だけは解放されたわけだ。あとの半分は、おれたちの力で解放しよう。かならずそうしような、キルヒアイス!」      ㈸  セバスティアン・フォン・ミューゼルの葬儀がすみ、幼年学校へもどる途中、空は、貴婦人の気どりをすてて、にわかにヒステリーをおこした。地平線から雨雲が躍りあがり、風が肺機能を全開にしたと思うと、窓に雨滴の大群がむらがった。地上車はたちまち水の小さなハードルをけちらすことになった。  春の嵐は、みじかくはあったが、おだやかでもなかった。天体運行の法則の前に、息をひそめて静謐《せいひつ》をしいられた自然が、きたるべき復活の日にそなえて熱情のひとかけらを投げつけたように見えた。ラインハルトにはそれがわかるのだ。彼自身がそうであったから。  幼年学校にもどると、さらに強い嵐が彼らを待っていた。第二の殺人がおこなわれていたのである。殺害されたのは、やはり最上級生で、ヨハン・ゴッドホルプ・フォン・ベルツといった。ハーゼにつぐ学年次席の座をしめる秀才であった。 「やってくれるものだな、おれのいるところで」  ないがしろにされた怒りをあらわに、ラインハルトは壁を拳でたたいた。奇妙なことだが、キルヒアイスにはわずかながら安堵めいた気分がある。これは思考の判然とした、出口のある怒りであるから。 「犯人はラインハルトさまのお留守をねらって第二の犯行をおかしたのです。誰であれ防止するのは不可能でした」 「だが、いずれにしても、犯行をふせげなかったのは、おれの責任だ」  殺人現場である洗面室は、総タイルばりで天井と壁がクリーム色、床が緑色をしている。壁と床に血が飛散していたが、壁についた血はきれいにふきとられてほとんど痕跡すら見えないのに、床の血は半ばふきのこされている。それも、血がついていない部分の床をこすった形跡が見られる。この一見、非論理的な状況をいかに解釈すべきであろうか。 「卿が捜査の任につきながら、第二の事故が防止されえなかったのは残念なことだ」  校長室で、シュテーガー校長はおだやかな毒をこめて、若すぎる金髪の大佐を見やった。ラインハルトは抗弁しなかった。最大の責任は校長にあるはずであり、ラインハルトの葬儀出席中にかわって校内にいた憲兵も責任を分担すべきである。そう思ったが、口には出さず、彼は蒼氷色《アイス・ブルー》のヴェールを瞳にかけていた。 「わたしとしても残念だ。ベルツはわたしに、何やら秘密に相談したいことがあるといっていた。思えば、彼は犯人を知るなり犯行を目撃するなりして、それをわたしに知らせようとしたために害されたのかもしれぬ」 「ありうることですが、なぜそれを小官にお話しいただけなかったのですか」 「いまにして思えば、ということで、そのときは予期できなかったのだ。それに、卿も他の心配ごとがあったことだしな」  反論できず、ラインハルトは校長室から退出した。犯人を検挙しないうちは、ほしいままに舌を動かすこともかなわぬ立場である。  それにしても、緑色のタイルに飛散した人血を、犯人はなぜすべてふきとってしまわなかったのだろう。時間がなかったのか。誰かが近づいてきたためにその余裕を失ったのか。単なる犯人の失態かもしれないが、失態を生む母胎となるような特別な事情が何か存在したのではないか。  さしあたり、この論理的矛盾が突破口になるかもしれない。最初のライフアイゼン殺害について、証拠皆無であっただけに、第二の殺人に捜査の突破口を求めるしかないのである。  翌朝、本部から派遣された五、六人の憲兵下士官の報告を受けたラインハルトは、連続する事件にさすがに不安のもや[#「もや」に傍点]をただよわせている校内を歩んで、一隅にひそむサービスエリアにははいりこみ、一五分ほどで出てきた。  あてがわれた部屋にもどると、キルヒアイスが待ちかまえていた。 「この前から何が気になっていたか、ようやくわかりましたよ、ラインハルトさま」  五種類のジャージをテーブルの上にならべながらキルヒアイスが言う。黄、赤、青、緑、黒と五色の服が、テーブルに大きな花を咲かせた。最上級の学年主席モーリッツ・フォン・ハーゼが、サッカー・グラウンドの前で彼らに言ったことばが、キルヒアイスの心に小さな不協和音を生みおとしていたのだ。 「あのときモーリッツ・フォン・ハーゼは、得点したのは黄色いジャージのほうではない、といったのです」 「赤のほうといえばすむことなのにな」 「ええ、ラインハルトさまや私ならそう表現したでしょう。ですが、ハーゼにはそれができなかったのです」  サッカー・グラウンドは晩春の濃い緑におおわれていた。その背景のなかで、ハーゼは黄色を識別することはできても、赤を見わけることができなかったのだ。  ハーゼは色盲だったのだ。赤緑色盲──おそらくかなり強度の。それをひた隠して、彼は幼年学校に入学をはたしたのだ。  色盲という名詞を認識するのに、ラインハルトはやや時間を要した。それは人間の劣悪な遺伝子の所産として、公式には絶滅させられたもののはずであった。  五〇〇年近い昔、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムは「劣悪遺伝子排除法」を制定した。彼と彼の御用学者たちは、自然界に存在するはずもない「完全な健康」こそが人間の生きる資格であると主張し、さまざまな遺伝上の欠陥をもつ人々を大量に「処分」したのだが、この残忍で苛烈な処置も、「劣悪遺伝子」を根絶することは不可能であった。ゴールデンバウム皇室自体が、後に多くの異常者を生み、乳幼児殺害の悪徳をかさね、優生思想の愚劣さ、あさはかさを自ら証明してきたのである……。  ラインハルトはピアニストめいた律動性で、白い指でデスクをたたいた。  犯人がハーゼであれば、ベルツ殺害のとき、タイルの上に散った血を、犯人はふくことができなかったはずである。赤緑色盲だったから、赤と緑との区別がつかない。それでも彼は血をふきとる必要があった。だとすれば、あの奇妙な形跡にも説明がつく。矛盾は解決されることになる。 「何か他の色をしたタオルなり布なりで、あてずっぽうにタイルの上をふいたのではありませんか。その布を見れば、血がついているかどうかわかりますから」  キルヒアイスの推論も理にかなっていることを、金髪の少年は認めた。 「そのとおりだ、キルヒアイス、ところでこれを見てどう思う」  ラインハルトがとりだしたのは黄色のタオル、正確にはその残骸であった。各処が黒く焼けこげているが、それでも、どす黒く変色した血がこびりついているのが判別しえる。 「ラインハルトさま、これは焼却炉のなかにあったのですか」 「そう、まだ完全に焼却されていなかった。憲兵本部で検査すれば血液反応がでるはずだ」  赤毛の少年は、ラインハルトの声に、躍るような情熱が欠落しているのを敏感に看取して、友人の顔を見なおした。 「やはりモーリッツ・フォン・ハーゼが犯人だと、ラインハルトさまはお考えになりますか?」  金髪の少年が小首をかしげると、証明が優美に波うって彼の頭上を通過した。光輪をいただく秀麗な織天使《セラフィム》を思わせる姿だった。 「……というふうに考えざるをえない材料が、やたらと多いじゃないか」  ふたりはつれだって食料倉庫に行ってみた。死んだカール・フォン・ライフアイゼンが、とくに食事に対する不平が多かった、という証言があったのである。これは本部から派遣されてきた憲兵下士官の報告によった。  無人の倉庫にはいって、つみあげられた食料の山の間をやや漠然と歩いていたとき、頭上の危険に気づいたのはキルヒアイスだった。 「あぶない、ラインハルトさま!」  声に出したつもりだったが、実際には声帯より全身のほうが迅速に動いていた。キルヒアイスがラインハルトにとびつき、金髪の少年と赤毛の少年が三メートルほどの距離を高速度で水平移動した直後、べつの物体が垂直に落下して、コンクリートの床に重々しいひびきをたて、埃《ほこり》の微粒子を舞いあげた。それは三〇キロ入りの小麦粉の袋だった  ふたりは数秒間、床にすわりこんだまま、巨大な小麦粉の袋を注視していた。ラインハルトの豪奢な黄金色の頭が、小麦粉に押しつぶされる光景は、どうやら笑話としてすませられるようだった。ラインハルトは謝意をこめて友人の赤毛の掌《てのひら》でくしゃくしゃにし、いきおいよく立ちあがった。 「兇器はこれだ、キルヒアイス」  ラインハルトの声が、ひさびさにはずんだ。キルヒアイスの手を引きおこしながら、熱っぽい口調で説明する。 「重量三〇キロの小麦粉の袋を、一五メートルの高さから頭上に落とす。脳底骨折で即死だろう。殺した後は、小麦粉を外へ出し、集塵装置で吸いこんでしまう。袋はたたんで服の下に隠してしまえば、兇器は消失して、完全犯罪となる。こんな偶然がなくても、気づくべきだったのにな」  ラインハルトはくやしがったが、キルヒアイスにしてみれば、この聡明な少年だからこそ気づきえたように思える。 「……ところがこの推理には大きな穴があるんだ、キルヒアイス」  金髪の少年は形のいい眉をしかめ、すると実際の年齢よりさらに年少にみえた。 「とおっしゃると?」 「なぜ犯人は、事故をよそおおうとしなかったのか、だ。袋をそのままにして、ロックをといたままにしておけば単なる事故ですんだだろう」 「校長が管理責任をとわれるだけですみますのにね」  ラインハルトは蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳をかるくみはった。腕をくんで考えこむと、やがて出口へむかって歩みはじめながら、彼は独語した。 「どうにか一週間以内にかた[#「かた」に傍点]がついたな……」      �  ラインハルトによって校長室に呼びだされたとき、学年主席モーリッツ・フォン・ハーゼは無彩色の顔つきをしていた。入室してきたとき、すでにそうだったから、校長シュテーガー中将の陰気そうな顔を室内に見出しても、いまさら変色しようもないようであった。 「何の御用でしょうか、ミューゼル大佐」  その問いに応じてキルヒアイスがしめしたのは、一枚の紙片だった。ただの灰色の紙片。彼にはそうとしか見えなかった。だが、ラインハルトは無機的な残酷さをこめて言ったのだ。 「この文章を読んでくれ、ハーゼ」  それは赤い文字が記された緑色の紙片だった。「犯人はモーリッツ・ハーゼ」と、その文字は語っていた。だが、ハーゼにはそれを読みとることはできなかった。彼はみじめに沈黙した。  最初に被害者カール・フォン・ライフアイゼンは、犯人が色盲であることを知って脅迫したのだろう。何らかの代償を強要し、それが犯人の「防衛的動機」を喚起した。第二の被害者は犯行現場を目撃し、さらに犯人を暴走させる結果となったのであろう。  校長シュテーガー中将に、ラインハルトはそう説明していた。犯人はじきにお目にかけます、と。そしていま、ハーゼを中将の眼前にひきずりだしている。 「どうした、ハーゼ、まさか字が読めないわけではないだろう」  ラインハルトの声には霜がおりていた。モーリッツ・フォン・ハーゼの顔は、かさなりあう複数の心理の断層面をあらわにしていた。狼狽、屈辱、敗北感、そして怒りと憎悪。これまでどれほど苦労してきただろう。緑と赤のランプの位置を確認してまちがうことのないよう心にも身体にもたたきこみ、正常な視神経を持つ者に負けぬよう、さとられぬよう必死でつとめてきた。実際、彼の才能が他者にまさるものであることは、現実の彼の地位がしめすとおりではないか。それなのに、それなのに……! 「それとも見えないのか、ハーゼ」 「そうです、大佐、ぼくには見えません。たしかにぼくは赤緑色盲です、それも強度の。それを認めます。ですから、これ以上、あなたのへたな演劇《しばい》につきあわせるのはやめてください」  激情が音声化して、学年主席の口からほとばしった。両手が強風をうけた枝のように無秩序にゆれ、両眼が熱をおびた。湿地の水たまりに反射する熱帯の陽光に似て、それはむしろ不快な熱っぽさだった。 「それが卿の本質か。表面はおとなしいが、それだけ感情が内にこもることだろうな」  ラインハルトはことさら一七歳の少年らしい一面性で断定してみせたが、校長シュテーガー中将は人生経験豊富な年長者として罪を犯した生徒を庇護《ひご》する気配もしめさなかった。 「ハーゼ、私は残念だ。残念でならない。君ほど優秀な生徒が、理由あってのこととはいえ、同窓の学友を手にかけるとは、じつに残念だ。私自身の無力も痛感せざるをえない……」  空転するモーターは金髪の少年に制止された。 「モーリッツ・フォン・ハーゼは犯人ではありませんよ、校長閣下」  あいかわらず霜のおりた声をラインハルトは発した。 「私がハーゼに罪を認めるのは、色盲をかくして幼年学校にはいったという一点だけです。犯人は他にいます」  断言するラインハルトの顔を、校長は不審そうに見やった。ラインハルトの視線を受けて、赤毛の少年が歩みでた。  キルヒアイスの手に、あつくハンカチでつつんだ棒状の物体がのっていた。布地をひらくと、人間の身体から吹きだす赤絵具を刃にこびりつかせたペーパーナイフがあらわれた。 「兇器のナイフです。これが先ほど、エーリッヒ・フォン・ヴァルブルクという生徒の部屋で発見されました」  室内に沈黙が爆発した。その無音の鳴動を、ラインハルトの音楽的な声が切りさいた。 「彼はいま他の憲兵によって拘留されています。正式ではないにしろ、すでに自供もえました。ライフアイゼン、ベルツ両人を殺害した旨、告白しております」 「ばかな!」  校長は両眼と口から同時にすさまじい怒気を放った。 「そんなはずはない。あれは犯人ではない。第一、そのナイフはハーゼのデスクの抽斗《ひきだし》にあったはずだ!」 「そのとおりです、閣下」  おだやかにラインハルトは認めた。 「ですが、なぜそのことをご存じなのですか?」 「ハーゼは学年主席です。ふたりめの被害者、ヨハン・ゴッドホルプ・フォン・ベルツは学年次席でした。このふたりが消えれば、学年第三席の者が主席に浮上する結果になります」  淡々として金髪の少年は説明した。 「学年第三席は、エーリッヒ・フォン・ヴァルブルク。このさい彼自身の姓は問題ではありません。重要なのは母方の祖父の姓です。シュテーガー。ゲアハルト・フォン・シュテーガーというのが、祖父の姓名です」  校長は顔面を石化させていた。やがて発した声は、石のこすれあう音に似ていた。 「ミューゼル大佐、君は冗談がへただと私は君の在校当時から思っていたが、その後、どうも成長が見られないようだな。むしろ退歩しているほどだ」 「訂正していただきます。できの悪い冗談ではなく、できの悪い事実だ、とね。何にしても、いま少し話をつづけさせていただきましょう。まだ結末《おち》がついていませんから」  校長は不同意の表情をつくったが、口には出さなかったので、ラインハルトは積極的な賛同をまたずに話をつづけた。 「もともと最初のカール・フォン・ライフアイゼンの死、あれは不幸な事故だったのです。彼は、自分たち生徒の食料事情がいちじるしく悪いのは、厨房《ちゅうぼう》の関係者が食料を横流ししているのではないかと考えた。そこで実情をさぐろうと食料倉庫に侵入したのです。正義感ばかりではなくて、不正の証拠をにぎれば、士官学校へ進むとき評価が高くなる、そういう打算もあったことでしょうね」 「……」 「そしてライスアイゼンは思わぬ奇禍にあった。あなたは校長として夜の巡回中に、それを発見し、困惑せざるをえなかった。校長の管理責任が当然のこと問われるからです。だが、そこで、犯罪者としての資質が芽をふいた……」  ラインハルトは端麗な唇をとざした。同室の三人は沈黙を守っていた。キルヒアイスは落ちつきと誇りをこめて彼を見まもり、ハーゼは驚愕に窒息したままただ立ちつくし、校長は精神の不毛な荒野にすわりこんでいた。 「あなたは小麦粉の袋を空にして、袋をすてた。倉庫の扉を外からロックした。これで事故は殺人になったわけだ。あなたが最初からハーゼを犯人にしたてるつもりだったかどうかはわからない。あとで考えたのかもしれない。彼が色盲であることを明らかにすれば、彼は当然、学校から追われる。だが、それでも孫の上にはベルツがいる。孫を主席にするには、ベルツも同時に排除しなくてはならない。あなたは孫かわいさに目がくらんだ。ベルツを殺し、ハーゼを犯人にしたて、孫を主席におしあげようとした」  校長の顔に赤みがさした。もっとも指摘されたくないことを旧生徒に容赦なく指摘されたのだ。 「あなたにとって誤算だったのは、憲兵隊がよこしたのは捜査の経験もない青二才だったということだ。ハーゼが犯人だということを私たちに教えるため、ずいぶん苦心なさったでしょうね。わざわざサッカー・グラウンドまで彼をよこしたりことさら黄色いタオルや緑のタイルを小道具に使ったり。卒業後まで恩師の手をわずらわせて、恐縮だと思っております」  ラインハルトはことばをきり、冷笑よりは憐憫《れんびん》により近い声を流し出した。 「悪あがきはおやめなさい。キルヒアイスは在校当時、何度も射撃大会で金メダルをとった技倆《うで》ですよ。相撃ちにもなりはしません」  校長は肩をおとした。キルヒアイスが歩みよって、背後にまわされていた校長の腕を静かにつかみ、引きだした。一丁の軍用ブラスターは、校長の手から、彼より背の高い赤毛の少年の手にうつった。ラインハルトがふたたび口をひらくと、声の質と温度が一変していた。飛びだしたのは灼熱した針であった 「あなたは卑怯者だ。理不尽な法をしいる強者に対してこそ闘争をいどむべきなのに、弱い立場の生徒を害することで、孫かわいさのエゴイズムを満足させようとしたのだ。殺された生徒にも祖父がいるだろうに」  若者の弾劾は容赦なかった。 「あなたにくらべれば、自由惑星同盟と称する叛徒どものもとへ逃げだす亡命者のほうが、はるかにいさぎよい。彼らは少なくとも、何かを手に入れるためには何かを、たとえば祖国を失わなくてはならないことをわきまえているからな」  なぜ強者に挑戦せず、力を弱きにむけるのか、なによりもそれが軽蔑の対象となるラインハルトなのである。 「きさまなどに理解できるものか」  にわかに噴きあがった老士官の声は、粘着質の悪意にみちていた。両眼に、憎悪と絶望の熱泥《ねつでい》があふれて、泡をはじけさせている。 「姉が陛下の寵愛を受け、そのおかげで楽々と一六、七歳で大佐になれるような奴に、わしの苦労がわかるものか、上官の理不尽にたえてようやくここまできたわしの気持がわかるものか。わしは娘の夫に夢を託したが、彼も戦死した。わしは彼の夢をもあわせて孫のためにじゃま者をとりのぞいてやったのだ。どこが悪いのだ」  この種の屈辱と曲解をこうむって、平静をたもちうるラインハルトではないはずであった。だが、蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳に充満した怒気が、やや不完全燃焼の状態にあるのを、キルヒアイスは看取した。  キルヒアイス自身も、意外な心理作用を自身の裡《うち》に見出して、ややとまどっていた。彼はふと思ったのだ。ラインハルトを憎悪する資格を有する者がいるとすれば、それは現在の社会体制において特権をむさぼり弱者をしいたげている門閥貴族どもではない。現在の社会体制の枠内で、ささやかな地位の向上と待遇の改善をのぞむような人々こそが、ラインハルトを敵視するかもしれないのだ。ようやく銀の皿の前にすわることができたら、ラインハルトが皿自体をたたきわってしまったとあっては、彼らはそれまでの社会の不条理より、ラインハルトを憎むことしかできないのではないか。  それはいささか、やりきれなさをおぼえさせる考えだった。ラインハルトは遠く高みをめざして飛翔しようとしているが、地をはいずりまわり、似かよった境遇の者と共食いをすることでしか幸福を追求しえない者もいるのだ。 「あなたの気持とやらいうものは、まず、ベルツの遺族に理解してもらう必要があるでしょうね。私などのとやかくいうことではありません」  相互理解をあえて、ひややかに拒絶してみせると、ラインハルトは赤毛の友に合図した。キルヒアイスのあけた扉から憲兵たちがはいってきた。 「夢の小さな者を軽蔑なさいますか、ラインハルトさま」  金髪の若者は友人を振りむいた。ふたりは二重の嵐が去った幼年学校の校庭を歩いていた。遠く、あいかわらずサッカーに興じる生徒たちの声が流れてくる。  校長は憲兵本部へつれさられた。色盲を隠して入学したハーゼも同様に。これはキルヒアイスには重苦しく、ラインハルトにとっても不快な結果であったが、どうせ校長がハーゼの色盲について言及するにちがいなく、かくしおおせようもないことであった。不条理を合法的にただす力を、ラインハルトは未だ持たない。ハーゼの処分がなるべく軽いものであるよう請願書を出すていどのことしかできないのだ。  いずれにしてもこうして幼年学校は校長と優等生二名、純優等生一名をいちどきに失った。この事件が公表されることはむろんありえない。ラインハルトにとって、かがやかしい武勲ではなく、ひそやかすぎる功績である。だが、とにかく、この功績を理由として、ラインハルトは早い時期に、意にそまぬ職場から解放されるであろう。やはり彼は広大な宇宙で雄敵を相手に戦略と戦術の力量をきそいあいたいのだった。 「夢の大小はともかく、弱い奴は、いや、弱さに甘んじる奴は、おれは軽蔑する。自分の正当な権利を主張しない者は、他人の正当な権利が侵害されるとき共犯の役割をはたす。そんな奴らを好きになれるわけがない……」  それはキルヒアイスがひかえめに求めていた回答とは、ややことなっていた。だが、求めていた以上のものを彼はつぎの一瞬に与えられたのである。 「お前もそう思うだろう、キルヒアイス? お前はいつもおれと同じように感じてくれるよな」 「はい、ラインハルトさま」  そうだった。自分はこの金髪の天使と、夢を共有しているのだ。つねにラインハルトとともにありたいという彼の夢のささやかさを、笑いとばされるのではないかという彼の杞憂《きゆう》は、愚かなものだった。影が本体と別離するなどありえないことなのに。  ふいに風が横あいからおそいかかって、二色の髪を乱した。ふたりはひとしく髪をおさえ、ひとしく空をみあげ、同じ感慨をもって顔をみあわせ、ほんとうに何日ぶりかで笑顔をかわした。  強い、しかしこころよい風は初夏の尖兵《せんぺい》だったのだ。なまぬるい季節を過去におきさって、彼らはすぐに豊かな光と生気の躍る日々を迎えることになるはずであった。  この作品には、『色盲(赤緑色盲)』という言葉が使われていますが、これは、色覚障害の方を差別する意図によるものではありません。作中の銀河帝国は人間を身分や障害によって差別するという悪しき社会体制の国家であり、主人公であるラインハルトたちは、そのような国家を打倒することを目的としています。その様なスタンスに立って書かれた作品であることをご理解下さるようお願いいたします。                編集部